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My Sight

私が仕事で思ったこと、感じたこと、気になること、をメモ的に書いていきます。

AIに任せる、という幻想

AIに任せる、という幻想

「そこはAIに任せればいい」
最近よく聞く言葉だ。
面白いのは、その使われ方である。
自分がよく分かっている領域については、
「ここは人がやらないと無理だ」と言う。
経験も勘所も見えているからだ。
一方で、
自分にはよく分からない領域になると、
急に「それはAIでできるでしょ」と言い出す。
この非対称さが、ずっと引っかかっている。

分かっているからこそ、
そこにどれだけの前提や判断が詰まっているかが見える。
だから「AIに任せるわけにはいかない」と分かる。
分かっていない領域では、
何が難しくて、どこに落とし穴があるのかが見えない。
見えないから、AIならうまくやってくれる気がしてしまう。

本当に厄介なのは、
どこで引っかかっているのかを、
自分でもまだ掴めていない状態だ。
問いを立てる以前に、
どこで立ち止まるべきかが分からない。
そこを飛ばしてAIに任せると、
それっぽい答えは返ってくる。
だが、その答えをどこに置けばいいのかが分からない。

AIは、分かっていることを処理する道具だ。
分からないことを分かるようにする仕事は、
最初からAIの外側にある。
「AIに任せる」という言葉が、
少し幻想めいて聞こえるのは、そのせいだ。

堆積物のカオス

堆積物のカオス

長年の慣習の中で、企業には無数のルールが積み上がっていく。
その上に、コンプライアンスだ、SDGsだ、と新たな要請が重なり、さらにルールが増えていく。
一つひとつを取り出してみれば、それぞれに道理があり、目的も正しい。
だが、全体として眺めたとき、それらがどこへ向かっているのかは、もはや誰にも分からない。
そこにあるのは、方向性を失った「カオス」だ。
企業内の活動は、その堆積物の塊でできている。
そこにどれだけのコストがかかっているのか、どれだけの効果があるのか。
正確に答えられる人はいない。
こうなると、本来は価値を生むための企業活動が、
リスクを回避し、説明責任を果たすこと自体が目的の活動へと変質していく。
「失われた何十年」の本質は、戦略的な目標設定ができなかったことだけではない。
堆積物でがんじがらめになったプロセスに、コストと時間を吸い取られ、
価値創造に手が届かなくなったことにある。

では、これをどう打ち破るのか。
答えは単純だ。
企業活動の原点に立ち返り、価値を生むことに集中する。
ただし、そのために重要なのは「小さく分けること」そのものではない。
要点は、サブシステムをどう設定するか、
そして、それらにどの程度の多様性を持たせるか、である。
システムが大きすぎるなら、分割すればよい。
だが、画一的に分割されたサブシステムでは、結局同じカオスを再生産するだけだ。
戦略に基づいて役割の異なるサブシステムを設計し、
評価軸や意思決定のスピード、許容するリスクを意図的に変える。
その「違い」こそが、多様性の正体だ。
多様化の本質は、人材の多様性ではない。
まずサブシステムの多様性があり、
人材の多様性は、その結果として現れる。

戦略が先にあり、
手段として、どのようなサブシステムをいくつ持ち、
それぞれをどう運用するのか。
そこに、企業活動を再び価値創造へと引き戻す鍵があるように思う。

一点突破

一点突破

「一点突破」という言葉には、どうにも引っかかりがある。
選択肢がなく、これでダメなら終わり――そんな切迫した響きがつきまとうからだ。
戦略を考え、企画を練る立場に立てば、本来はできるだけ避けたい言葉である。
だが一方で、その切迫感があるからこそ、突破できる局面がある。
複数の選択肢を並べ、メリット・デメリットを整理し、天秤にかけながら進む。
それは合理的で、賢いやり方に見える。
けれど、そうやって突破できる道は、どこか予定調和で面白くない。
捨て身で挑む。
背水の陣を敷く。
退路を断ったからこそ、前に進むしかない。
その状態で放たれるエネルギーが、道を拓く。
一点突破の物語に心を揺さぶられるのは、そのエネルギーなのだ。

そもそも、未来はどこまで行っても不確実だ。
完璧な選択肢など存在しない。
選択肢の有無を論じること自体、後講釈の評論に過ぎない。
考えるだけ考え、検討できるだけ検討したなら――
最後に必要になるのは、理屈ではなくエネルギーだ。
一点に集中する覚悟。
迷いを断ち切る決断。
それが、結果として道を拓く。

“意味”の解像度を上げる

“意味”の解像度を上げる

Keep It Simple, Stupid.
“KISSの法則”をモットーにしているが、ここで大事なのは「複雑なものをシンプルに捉える」ことであって、単にシンプルであること自体には、ほとんど価値がない。
物事は、基本的に複雑だ。
MECEという言葉もあるが、あれだって“MECEに構造をつくること”に価値があるのであって、この世にMECEな事象そのものが存在するわけではない。
世の中、そんな単純じゃねぇよ、である。
ここを履き違えると、
“複雑なものをシンプルに、シンプルなものはそのまま”
という浅い整理に陥る。
それでは表面だけをなぞることになり、面白くもなければ、価値もない。

どんな事でも、背景があり、物語がある。
そのあるもの・ないもの、見えるもの・見えないものをこねくり回し、
いろんな角度から眺めながら、そこに一筋の切り口を見つける。
この作業をひたすら繰り返していくと、
複雑な世界が、ある時スッと一本の線として立ち上がる瞬間がある。
その瞬間こそが、意味の解像度が上がるということだ。

「シンプルにすべし」は本質だ。
だがそのプロセスは、いつだってカオスである。

教えられること/教えられないこと

教えられること/教えられないこと

当たり前だが──教えられることと、教えられないことがある。
知識そのものは教えられる。知識の使い方やノウハウも、ある程度までは教えることができる。
しかし、「どんな場面で」「どんな目的で」それを使うべきか。
そのすべてを教えることはできない。
過去に起きた出来事なら説明できても、これから起こる未知の問題については、説明しようにもできないからだ。
知識は道具のようなものだ。
だが、その道具を“どんな未知の状況で”“どう使うのか”までは、完全には教えられない。
単純な道具であれば、使う場面を示すこともできるかもしれない。
しかし、知識のように抽象度が高く、汎用性が広い道具になると、使い方も、使う場面も無数に広がる。
むしろ、使い方そのものに価値が宿ると言っていい。
そうなると、もはや「教える」という行為には限界がある。
こちらだって、すべてのケースを知っているわけではない。
だからこそ本当は、
「なるほど、こういう使い方があったか!」
と驚きたいし、議論したいし、その発見にワクワクしたい。
どうやら知識には二種類あるようだ。
教えればすぐ使える知識と、
教えても使えるようになるまでに経験や、”ある種の能力”が必要な知識だ。
では、この“ある種の能力”とは何なのか。
経験しても使える人と使えない人がいる。
この差を、人は“センス”と呼ぶのだろうか──。

洞察力の磨き方

洞察力の磨き方

AIによって「構造」は誰にでも簡単に手に入る時代になった。
しかし、その構造に意味や価値を見出し、さらには新たな構造を生み出す力こそが、これからの鍵となる。
この「意味」や「新しい価値」を見出す力——それが洞察力だ。

洞察力は、経験と知識の往復の中でしか育たない。
やってみて、うまくいかず、学び、また挑戦し、また失敗する——。
その繰り返しの中で、時に飛び上がるような成功を得て、時にどん底で苦しむ。
その揺れ幅の大きさこそが、洞察の純度と深みを生み出す。

これまでは「構造を見つける」こと自体が大きな挑戦だった。
試行錯誤の過程で数多くのパターンを学び、理解し、その上で新しい構造を発見していく。
そして「見つけた!」と思ったものが、実はすでに誰かが見つけていた——そんな経験を重ねながら、人はパターンのより深い意味と使い方を学んできた。
しかし、AIによって構造化が容易になると、この過程の多くが省略される。

では、そのとき人はどうやって洞察力を磨くのか?
おそらく、AI時代の洞察力の磨き方は、かつての「教養(リベラルアーツ)」が果たしていた役割を、新しい形で取り戻す運動——新たなリベラルアーツ・ムーブメントになるのだろう。
その方法論については、今後の継続検討イシューとしたい。

AI時代における職人性

AI時代における職人性

AIが普及しはじめて、「誰でもできること」が急速に増えた。
文章を書く、デザインをつくる、資料をまとめる——これまで時間と経験を要した仕事の多くが、驚くほど短時間で形になる。まるで、初心者でも上級者のように見せてくれる“支援装置”のようだ。
だが、その一方で、職人性はどこへ行くのか、という問いが浮かぶ。
AIが表現や設計の「標準解」を出してくれるようになると、標準の中での巧拙や工夫は、ほとんど意味を持たなくなる。
型を整えるスピードや精度では、AIに勝てる人間はいない。
しかし、型そのものを超えて「何を作るのか」「なぜそれを作るのか」という問いを立て、意味のある逸脱を生み出すこと——ここにこそ、職人性は残る。
思えば、職人の世界にも似た構造がある。
熟練の大工は、図面通りに木を切ることよりも、木のクセや湿り気を読む。
陶芸家は、ろくろの上の土を「形にする」のではなく、「土の声を聞きながら形になっていくのを導く」。
そこには、教科書化できない「勘」や「間」がある。AIにはまだこの領域がない。
情報を扱うことはできても、「意味」を扱うことはできないからだ。
AI時代の職人性とは、この“意味”を扱う力のことかもしれない。
AIが提示する80%の完成品を前にして、「なぜこれを良いと思うのか」「本当にこれで伝わるのか」と自問できる人。
AIの答えを素材として、自分なりの手触りに変えていける人。
その人こそが、新しい職人なのだろう。
AIは多くの人を「上手く」してくれる。
だが、「深く」してくれるわけではない。
だからこそ、職人性は失われるどころか、これからさらに輝きを増す。
AIが型を整え、人が意味を吹き込む。
そんな時代のものづくりが、静かに始まっている。

AIハイウェイと20%の断層

AIハイウェイと20%の断層

AIは便利なツールだ。
便利で、簡単。――それゆえに課題もある。
AIは、ろくに知らない分野でも概要をまとめてくれ、ポイントまで整理してくれる。
関心の薄い領域であれば、それで十分だ。
まるでハイウェイを走っているように、特定分野の全体像や要点を、短時間で押さえることができる。
この便利さを使わない人は、徒歩で道を行くようなものだ。
勝負にならない。
だからこそ「AIを活用せよ」と声高に叫ばれる。
だが、このハイウェイには限界がある。
AIが導いてくれるのはせいぜい“80%”まで。
残りの20%――そこで必要になるのは、知識を「活用する力」だ。

この領域はAIの領域ではない。人間の領域だ。
AIを使う・使わないの格差は、時間とともにやがて解消されるだろう。
しかし、残り20%の“使いこなす力”の格差は、むしろ広がっていく。
AIが生み出した80%を糧に次の創造へ踏み出す人と、80%で満足して止まる人。
この差は、身震いするほど大きい。
AI登場以前からこの格差は存在していた。
だが、AIによって――その断層は、より深く、より広くなっていくのかもしれない。

価値創造と効率

価値創造と効率

“価値創造”と“効率”。
どちらも企業のビジョンや戦略の中で頻繁に登場する言葉だ。
だが、この二つの言葉は本来、相性が悪い。
なぜなら――効率よく価値を創造することなど、できないからだ。
多くの企業では、この矛盾を意識して使っているようでいて、実際には表現しきれていない。
“価値創造”は目標や目的として語られ、
“効率”は手段として扱われる。
だが、この構造のままでは整合しない。
受け取る側――特に現場のメンバーは、手慣れた効率化の発想に流れてしまう。
結果として、多くの企業で“ビジョンの核”であるはずの価値創造への意識が希薄になる。

本来、こう整理すべきだ。
既存事業は「効率化」を目指す領域。
新たな価値創造は「効果的な投資」を行う領域。
この二つを明確に分けて表現しなければならない。
そうでなければ、すべてが“既存事業の延長線”に吸い込まれ、
ビジョンも戦略も、ただの理想論――“絵に描いた餅”になってしまう。

ベンチャーの眼/大企業の眼

ベンチャーの眼/大企業の眼

ベンチャーの経営事例を大企業のメンバーが聞くと、
その意思決定の速さ、周囲を巻き込む力、行動の一貫性に深く感銘を受けることが多い。
ベンチャー側から見れば、それは“当たり前のこと”にすぎない。
だが大企業では、それがレアケースになってしまっている。
真剣味が違う――そう言ってしまえばそれまでだ。
ベンチャーでは、成長を目指す以上、意思決定し、スピードを上げ、周りを巻き込みながら進むしかない。
一つひとつが真剣勝負で、失敗すればすぐに修正する。
それ以外に成長の道はないのだ。
一方、大企業には「勝ちパターン」がある。
既に安定した収益を生む事業があるから、冒険的なプロジェクトに踏み出す必然性がない。
挑戦の必要がない組織は、当然ながら“失敗の経験”も失われていく。

ところが――である。
新規事業や新しい開発を始めようとすると、そこで初めて“冒険”が求められる。
しかし、多くの場合、やったことがない。
やり方を本で読んだ知識はあっても、それを組織の中で実装した経験がない。
知識も経験もないところに、洞察は生まれない。
つまり、大企業の眼で見る「理想的な事例」は、
ベンチャーの眼から見れば「当たり前のこと」なのだ。