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My Sight

私が仕事で思ったこと、感じたこと、気になること、をメモ的に書いていきます。

“意味”の解像度を上げる

“意味”の解像度を上げる

Keep It Simple, Stupid.
“KISSの法則”をモットーにしているが、ここで大事なのは「複雑なものをシンプルに捉える」ことであって、単にシンプルであること自体には、ほとんど価値がない。
物事は、基本的に複雑だ。
MECEという言葉もあるが、あれだって“MECEに構造をつくること”に価値があるのであって、この世にMECEな事象そのものが存在するわけではない。
世の中、そんな単純じゃねぇよ、である。
ここを履き違えると、
“複雑なものをシンプルに、シンプルなものはそのまま”
という浅い整理に陥る。
それでは表面だけをなぞることになり、面白くもなければ、価値もない。

どんな事でも、背景があり、物語がある。
そのあるもの・ないもの、見えるもの・見えないものをこねくり回し、
いろんな角度から眺めながら、そこに一筋の切り口を見つける。
この作業をひたすら繰り返していくと、
複雑な世界が、ある時スッと一本の線として立ち上がる瞬間がある。
その瞬間こそが、意味の解像度が上がるということだ。

「シンプルにすべし」は本質だ。
だがそのプロセスは、いつだってカオスである。

教えられること/教えられないこと

教えられること/教えられないこと

当たり前だが──教えられることと、教えられないことがある。
知識そのものは教えられる。知識の使い方やノウハウも、ある程度までは教えることができる。
しかし、「どんな場面で」「どんな目的で」それを使うべきか。
そのすべてを教えることはできない。
過去に起きた出来事なら説明できても、これから起こる未知の問題については、説明しようにもできないからだ。
知識は道具のようなものだ。
だが、その道具を“どんな未知の状況で”“どう使うのか”までは、完全には教えられない。
単純な道具であれば、使う場面を示すこともできるかもしれない。
しかし、知識のように抽象度が高く、汎用性が広い道具になると、使い方も、使う場面も無数に広がる。
むしろ、使い方そのものに価値が宿ると言っていい。
そうなると、もはや「教える」という行為には限界がある。
こちらだって、すべてのケースを知っているわけではない。
だからこそ本当は、
「なるほど、こういう使い方があったか!」
と驚きたいし、議論したいし、その発見にワクワクしたい。
どうやら知識には二種類あるようだ。
教えればすぐ使える知識と、
教えても使えるようになるまでに経験や、”ある種の能力”が必要な知識だ。
では、この“ある種の能力”とは何なのか。
経験しても使える人と使えない人がいる。
この差を、人は“センス”と呼ぶのだろうか──。

洞察力の磨き方

洞察力の磨き方

AIによって「構造」は誰にでも簡単に手に入る時代になった。
しかし、その構造に意味や価値を見出し、さらには新たな構造を生み出す力こそが、これからの鍵となる。
この「意味」や「新しい価値」を見出す力——それが洞察力だ。

洞察力は、経験と知識の往復の中でしか育たない。
やってみて、うまくいかず、学び、また挑戦し、また失敗する——。
その繰り返しの中で、時に飛び上がるような成功を得て、時にどん底で苦しむ。
その揺れ幅の大きさこそが、洞察の純度と深みを生み出す。

これまでは「構造を見つける」こと自体が大きな挑戦だった。
試行錯誤の過程で数多くのパターンを学び、理解し、その上で新しい構造を発見していく。
そして「見つけた!」と思ったものが、実はすでに誰かが見つけていた——そんな経験を重ねながら、人はパターンのより深い意味と使い方を学んできた。
しかし、AIによって構造化が容易になると、この過程の多くが省略される。

では、そのとき人はどうやって洞察力を磨くのか?
おそらく、AI時代の洞察力の磨き方は、かつての「教養(リベラルアーツ)」が果たしていた役割を、新しい形で取り戻す運動——新たなリベラルアーツ・ムーブメントになるのだろう。
その方法論については、今後の継続検討イシューとしたい。

AI時代における職人性

AI時代における職人性

AIが普及しはじめて、「誰でもできること」が急速に増えた。
文章を書く、デザインをつくる、資料をまとめる——これまで時間と経験を要した仕事の多くが、驚くほど短時間で形になる。まるで、初心者でも上級者のように見せてくれる“支援装置”のようだ。
だが、その一方で、職人性はどこへ行くのか、という問いが浮かぶ。
AIが表現や設計の「標準解」を出してくれるようになると、標準の中での巧拙や工夫は、ほとんど意味を持たなくなる。
型を整えるスピードや精度では、AIに勝てる人間はいない。
しかし、型そのものを超えて「何を作るのか」「なぜそれを作るのか」という問いを立て、意味のある逸脱を生み出すこと——ここにこそ、職人性は残る。
思えば、職人の世界にも似た構造がある。
熟練の大工は、図面通りに木を切ることよりも、木のクセや湿り気を読む。
陶芸家は、ろくろの上の土を「形にする」のではなく、「土の声を聞きながら形になっていくのを導く」。
そこには、教科書化できない「勘」や「間」がある。AIにはまだこの領域がない。
情報を扱うことはできても、「意味」を扱うことはできないからだ。
AI時代の職人性とは、この“意味”を扱う力のことかもしれない。
AIが提示する80%の完成品を前にして、「なぜこれを良いと思うのか」「本当にこれで伝わるのか」と自問できる人。
AIの答えを素材として、自分なりの手触りに変えていける人。
その人こそが、新しい職人なのだろう。
AIは多くの人を「上手く」してくれる。
だが、「深く」してくれるわけではない。
だからこそ、職人性は失われるどころか、これからさらに輝きを増す。
AIが型を整え、人が意味を吹き込む。
そんな時代のものづくりが、静かに始まっている。

AIハイウェイと20%の断層

AIハイウェイと20%の断層

AIは便利なツールだ。
便利で、簡単。――それゆえに課題もある。
AIは、ろくに知らない分野でも概要をまとめてくれ、ポイントまで整理してくれる。
関心の薄い領域であれば、それで十分だ。
まるでハイウェイを走っているように、特定分野の全体像や要点を、短時間で押さえることができる。
この便利さを使わない人は、徒歩で道を行くようなものだ。
勝負にならない。
だからこそ「AIを活用せよ」と声高に叫ばれる。
だが、このハイウェイには限界がある。
AIが導いてくれるのはせいぜい“80%”まで。
残りの20%――そこで必要になるのは、知識を「活用する力」だ。

この領域はAIの領域ではない。人間の領域だ。
AIを使う・使わないの格差は、時間とともにやがて解消されるだろう。
しかし、残り20%の“使いこなす力”の格差は、むしろ広がっていく。
AIが生み出した80%を糧に次の創造へ踏み出す人と、80%で満足して止まる人。
この差は、身震いするほど大きい。
AI登場以前からこの格差は存在していた。
だが、AIによって――その断層は、より深く、より広くなっていくのかもしれない。

価値創造と効率

価値創造と効率

“価値創造”と“効率”。
どちらも企業のビジョンや戦略の中で頻繁に登場する言葉だ。
だが、この二つの言葉は本来、相性が悪い。
なぜなら――効率よく価値を創造することなど、できないからだ。
多くの企業では、この矛盾を意識して使っているようでいて、実際には表現しきれていない。
“価値創造”は目標や目的として語られ、
“効率”は手段として扱われる。
だが、この構造のままでは整合しない。
受け取る側――特に現場のメンバーは、手慣れた効率化の発想に流れてしまう。
結果として、多くの企業で“ビジョンの核”であるはずの価値創造への意識が希薄になる。

本来、こう整理すべきだ。
既存事業は「効率化」を目指す領域。
新たな価値創造は「効果的な投資」を行う領域。
この二つを明確に分けて表現しなければならない。
そうでなければ、すべてが“既存事業の延長線”に吸い込まれ、
ビジョンも戦略も、ただの理想論――“絵に描いた餅”になってしまう。

ベンチャーの眼/大企業の眼

ベンチャーの眼/大企業の眼

ベンチャーの経営事例を大企業のメンバーが聞くと、
その意思決定の速さ、周囲を巻き込む力、行動の一貫性に深く感銘を受けることが多い。
ベンチャー側から見れば、それは“当たり前のこと”にすぎない。
だが大企業では、それがレアケースになってしまっている。
真剣味が違う――そう言ってしまえばそれまでだ。
ベンチャーでは、成長を目指す以上、意思決定し、スピードを上げ、周りを巻き込みながら進むしかない。
一つひとつが真剣勝負で、失敗すればすぐに修正する。
それ以外に成長の道はないのだ。
一方、大企業には「勝ちパターン」がある。
既に安定した収益を生む事業があるから、冒険的なプロジェクトに踏み出す必然性がない。
挑戦の必要がない組織は、当然ながら“失敗の経験”も失われていく。

ところが――である。
新規事業や新しい開発を始めようとすると、そこで初めて“冒険”が求められる。
しかし、多くの場合、やったことがない。
やり方を本で読んだ知識はあっても、それを組織の中で実装した経験がない。
知識も経験もないところに、洞察は生まれない。
つまり、大企業の眼で見る「理想的な事例」は、
ベンチャーの眼から見れば「当たり前のこと」なのだ。

上司の眼/部下の眼

上司の眼/部下の眼

価値観ほどではないが、企業組織を見ていると「立場による優先順位の違い」は常に存在する。
当たり前の話だが、人は自分の優先項目に囚われるものだから、その違いを意識して発信するのは難しい。
経営層は日々、株主・取引先・金融機関など内外から財務価値を問われ続けている。だから、判断軸はどうしても財務価値が主になる。
一方、部下は財務的な問いを直接ぶつけられることは少ない。その分、「なぜこの事業に取り組むのか?」という原点に価値を見出しやすく、意味価値が優先される。

この目線のズレは、主力ではない事業の評価で顕在化する。
もともとは新規事業として立ち上がった事業でも、時間が経つと“始めた理由”が曖昧になっていく。挙げ句の果てには、経営層でさえ「なぜこの事業を続けているのか?」がわからなくなっているケースすらある。
そうなると、判断は財務価値一本で下される。
部下側から見ると、「やる・やめる」の判断理由が意味価値の観点から説明されないので納得しにくい。
本来、事業の意味的価値を意識することは、その事業の出発点そのものだ。
だが、長く同じ事業を続けていると、運営そのものが目的になりがちで、事業の意味価値に立ち返る視点が失われていく。
危ない、危ない――。

価値観の断層

価値観の断層

価値観の違いを超えるのは難しい。
だって――価値観が違うのだから(笑)。

いくら言葉を練っても、表現を変えても、届かないときは届かない。
「努力が足りないのかもしれない」「能力不足なのだろう」――
あきらめない心が大切なのも、その通りだろう。
けれど、伝わらないものは伝わらない。
そしてその「伝わらなさ」を、自分の問題にばかり引き寄せてしまうと、心はすり減ってしまう。

“探索”に深く関わるほど、この経験は増えていった。
伝わらない強度も増していった。
それは価値観の断層が大きいからなのだろう。

だから少し軽やかに生きることにした。
伝わらないものは、無理に伝えなくてもいい。
伝わる人には、ちゃんと伝わるのだから。
そして、その人たちとは驚くほど深く、共感し合える。
それが、コミュニケーションの醍醐味だ。
価値観の断層は、確かにある。
けれど、伝わる人もまた、確かにいる。
どこまで粘るかは、バランス次第。

なるべく軽やかに歩こうと思っている。

財務価値と意味価値

財務価値と意味価値

コテンラジオで「財務価値と意味価値のバランスこそが新時代の経営理論になりうる」という話を聞いた。新規事業開発に携わる立場からすると、これは既に始まっている現実だ。

新規事業の最終目標はもちろん財務価値の創出にある。しかし、立ち上げ初期の短い時間軸では財務的には必ずマイナスであり、財務的成果として評価できない。だからこそ、意味価値が明確に認識されていなければ事業開発は続けることができない。
意味価値への理解が浅ければ、流行のバズワードなどに乗って一時的に事業を立ち上げても、財務的な赤字(投資)を前に継続性と一貫性を保てない。そして価値を創造する前に頓挫してしまう。そのような事例を数多く見てきた。
意味価値を企業経営に据えるためには、経営者の信念と哲学が不可欠である。そしてそれは個人の想いにとどまらず、組織全体の価値観として共有されて初めて持続可能なものになる。財務価値は仕組み的に共有と維持がなされやすいが、意味価値の共有と維持には高いハードルがある。
結局「両利きの経営」を実現するとは、財務価値と意味価値のバランスをどう設計し、維持していくかという問いに他ならない。
多くの企業が新規事業開発を掲げながら成果を出せていないのは、根底に意味価値への理解とアプローチに信念と哲学が欠けているからだ。マクロ的に見れば、これこそが「失われた30年」の正体ではないかと思う。対照的に、この期間に伸びた企業は意味価値を基点に事業を築いてきたことがわかる。

意味価値は「重要な視点」ではなく、前提条件になっている。