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My Sight

私が仕事で思ったこと、感じたこと、気になること、をメモ的に書いていきます。

価値を創るのは管理か探索か

価値を創るのは管理か探索か

企業買収などの例を見ると、管理で大きな価値を生むことがわかる。一方で、これは既にできたものをどう管理するか、という話でもある。すでにあるものをどういじくるか、どんな枠組みに変えるかで価値を生む手法で、これも価値創出には違いない。

冒険による探索は管理による価値創出とは異なり、本質的に新しいものを新たに創りだす活動である。同じ価値創造と言っても、既にあるものと新たに創るは考え方やプロセスが違う。
新しい価値を探りながら創るのは管理とは全く異なるプロセスであるが、一度出来れば創りあげたものの価値を育てていくのは管理プロセスになり、既にあるものの管理と考え方は同じではないが、かなり似てくる。

価値を創り上げる、発見する時間軸は短く、その後の管理的な考え方で価値を育てていく時間軸は長い。探索の難しさがここにもある。

事実って何?

事実って何?

歴史を見ると、事実とは何か?という問いにぶち当たる。
勝者と敗者があれば、どっちから見るかで同じ事柄がまったく違うものとして記述される。当然、古いものであれば勝者に寄ったものが多く、本当に起こったことやその要因はどこまでが事実なのだろうか。そうなると事実とは何だろうか?と思わざるをえない。
そう、事実とは相対的なものなのである。

数字の事実は間違えようがないが、重要なものはその解釈にあるケースがほとんどではないだろうか? 数字で決着できるものはその世界が定義されたものだ。しかし、そこに行きつくまでには多くの解釈を経てたどり着く。わかりきった世界はそれほど多くはない。

数字は仮説の代替

数字は仮説の代替

企業内のプロセスは基本的に数字で回っている。
これが新規事業へのアプローチを難しくしている。数字は仮説の代替であり、中身を語らない。数字の達成/未達の解釈が本質だ。当然、達成すればよい、という単純なものではないし、未達だからダメというものではない。
ここが数字で回している側には理解できない。理解できないケースがほとんどだろう。

企業の目的としては数字の解釈による仮説のポテンシャルとその実現可能性を評価すべきであろうが、そういうアプローチは既存事業の中にはほとんどない。
数字が仮説通り積み上がるものはないことを考えれば、数字で判断することはすべての可能性を閉ざすことになるのであるが・・・数字の枠で見ている者はわからない。
仮説の中身とそのポテンシャル、実現可能性が真に重要なイシューであるが、それを理解するフレームワークがない、ということなのだろう。

仮説~検証の本質

仮説~検証の本質

仮説~検証の本質は発見にある。特に初期の仮説はそうだ。
新規事業における初期の仮説は不確実性が高く、まず思った通りの検証結果にはならない。むしろ初期の曖昧な仮説を検証する過程で何を発見したかが本質なのだ。

この本質を理解すれば、初期の段階で無理やり仮説を立てることの意味がわかる。
仮説自体を検証するということよりも、立てた仮説とのギャップを発見することに意味がある。
初期の段階では不確実性が高く、理解も曖昧なので仮説をしっかり立てずに行動してしまう例が多いが、仮説を立てる意味はギャップ分析にある。
仮説の立て方が分析に大きな影響を及ぼすので、避けてはいけない。

適応とは何か?

適応とは何か?

環境変化、状況変化に適応する・・と言うが、実際にはそんなわかりやすい変化は多くない。ちょっとした小さな変化がやがて誰が見てもわかる大きな変化になっていく。
変化を先取りする新規事業において変化を捉えるのは簡単ではないし、変化を捉えなくては適応もない。

ではどうやって変化を捉えるか?
それは仮説~検証という活動にある。仮説~検証はあらかじめ立てた仮説を検証する活動であるが、本質は仮説を検証する過程での発見にある。
発見による目標の修正の積み重ねが結果として適応を実現する。
適応とは発見の積み重ねなのだ。

SDGsの本質

SDGsの本質

事業で100年単位の補助線を引けば・・・SDGsそのものになる。
今後100年を検討して進むべき道を考えれば、それは必然的にSDGsというわけだ。
そこから外れた事業は存続不可能だろう。

SDGsはいまやスローガンがバズワードとなり、手段が目的化するパターンに入っている感がある。しかし、真に事業を考えることが100年構想のスケール上にあることが必然となれば・・・わざわざSDGsと言わなくても企業の持続性、成長はすなわちSDGsのスケール上にある。逆に言えば、そのスケール上にない事業は淘汰されていく。
SDGsはお題目ではなく、企業の持続性の本質ということになる。

100年構想の時代

100年構想の時代

全てがつながり、システムとして変化していく時代。
2年や3年のレンジで考えても単品の製品や気の利いたアプリくらいで社会システムを変えるような事業にはなりそうもない。社会を変えるような事業を考えるならば10年でも足りない。100年くらいの補助線を引いて考える時代に入っているんじゃないだろうか。

実際に起こっていることはそうじゃないだろうか。
全てがつながり、関連し・・世界がどう変わるか、どう変わるべきかの一貫性がある。
ネットワーク、バイオ、環境、交通、宇宙、建築、社会問題・・・これからの100年でどう変わるかはわからないが、変わっていく方向、変わるべき方向はクリアだろう。
四半期計画の先に何があるのか?その延長上に何があるのか?
大きな事業開発は100年構想の時代になっている。

“生き生き”、させるのは誰か?

“生き生き”、させるのは誰か?

社員が生き生きしていることが競争力・・はそのとおり。
嫌々仕事をしているようではフラットな競争世界を勝ち抜けない。楽しんでやっている奴は競争相手としては始末が悪いわけだ。

そもそも生き生きさせるのは誰なのか? 確かに目先の施策でやる気が励起されることはあるけど、長続きはしない。それが当たり前でさらに望むようになる。
生き生きの原資は個人の中になければ続かない。
与えることではなく、自分の中で創るものだろう。

管理と冒険

管理と冒険

管理と冒険は典型的に対立構造を持つ。
「管理」は秩序や制御など予測可能性が前提にある。「冒険」は不確実性を受け入れ挑戦すること。

既存事業は予測可能性の中で勝ちパターンを回しているので、「管理」中心になる。そしてそれが利益を生むのだが・・・既存事業から脱却しないといけない状況になった場合は、対立的な「冒険」が必要になる。
長らく勝ちパターンを磨いてきた企業が「管理」と「冒険」を両立させるのはそれこそ想像できないほど難易度が高い。解像度も桁違いに低く、時間軸も長く、探索を繰り返す仕事は「管理」の中にはないからだ。
両立というのは違うOSを同時に、別々に走らせる・・という挑戦のしがいのあるものなのだ。

往復運動

往復運動

両利きの経営は「探索」と「深化」を両立させること。
両方を知らないとマネジメントできない。知っているとは経験があるという経験知を指す。情報として知っているだけでは足りない。
両立が難しいのは探索と深化が対立構造を持つから。
対立構造を持つものはどっちも経験していて初めてバランスを取ることができる。

バランスポイントに正解はないが、意図を持ってバランスを取ることが成果につながる。考えることなく、手なりでは運任せで上手くいかない。
経験知があって初めて、マクロ/ミクロ、近く/遠く、今/将来を往復し、バランスを決めることができる。バランスをきめることが“両利きの経営”と言える。