自律型人材、ジョブ型とか上から目線で組織側から注文が出てくるが・・そこにいる人、個人はそうはいかないよ。だって、組織が決めたことに従っていれば楽だから。自分で決めるなんて恐いことしないよ。まっぴらごめんだね。
得体のしれない、誰とも言えない“組織”ってやつがあって、それに従って生きてきたんだ。それがもっとも都合のよい生き方なんだ。目先を考えれば、いや、何も考えなければそれがベストなのさ。
私が仕事で思ったこと、感じたこと、気になること、をメモ的に書いていきます。
自律型人材、ジョブ型とか上から目線で組織側から注文が出てくるが・・そこにいる人、個人はそうはいかないよ。だって、組織が決めたことに従っていれば楽だから。自分で決めるなんて恐いことしないよ。まっぴらごめんだね。
得体のしれない、誰とも言えない“組織”ってやつがあって、それに従って生きてきたんだ。それがもっとも都合のよい生き方なんだ。目先を考えれば、いや、何も考えなければそれがベストなのさ。
報告。膨大な時間をかけて報告する。場合によってはそれを解釈して別の報告をする。その目的は何か。
順調に進んでいるかどうかをチェック~中身を知らない人がわかるの?
加速するためのアドバイス~中身を知らない人ができるの?
経費の消化状況確認~数字だけ見ればいいじゃん
チェックもアドバイスもプロじゃないとできない。
既存事業はみんなそれなりにプロだけど、新規では素人という構図に気が付かないと。
何をしたいのか? どうしたいのか?
これがないのに、「そうだ、新規事業をやろう!」ってノリでやり始める。
まずは調べる。いろんなツールやサービスがあるぜ。かっこいい資料をたくさん作ることになる。そして議論する、あれはどうだ?これはどうだ?で儲かるのか?・・いいね!
では再検討しよう。調べて・・議論して、あれはどうだ?これはどうだ?儲かるのか?
わが社のビジョンに合うのか? 俺のビジョンに合うのか? 膨大な時間とコスト。
何したいの?
自分で決めることって案外少ないなぁと思う。
お膳立てがされていて、そこから選ぶみたいなことが多いからね。
定食A、B、Cから決めることは簡単だけど、材料からどんな定食を作るか、は難しい。
すべてを選択肢から作るわけにはいかないけれど・・自分にとって大事なことは選択肢から作って選んだ方がよい。
なぜか?
楽しいから。
新規事業ってなんだろう?
今ある事業が伸びていて忙しい企業は、新規事業なんて言わないから・・伸び悩んでいる、
将来の伸びしろが期待できない企業がやるんだよね。
ということは、自分たちが持続的に生きていく、つまり社会に対して価値を提供する領域を
新たに創って、既存事業が枯れてきても生き残ることが目的だよね。
だとするとちょっとやってみるか・・じゃ足りないね。将来を賭けられるかどうかを試しに行くんだ。
ちょっとやってみるにしても、その領域で生きていく覚悟が必要だ。
そのつもりでかかってこい!って感じかな。
エベレストは登ろうと思わないと登れない。
そりゃそうだ、本気で目指すなら高地トレーニングや酸素ボンベなど準備をする。
事業も同じ。大きな価値を目指すならば、大きな準備をしなきゃ。
なのに・・スタート時は大きい夢を描いているのに、
やっていることは超現実的なセールスになっているものが多すぎる。
確かに目先の数字が上がらないといけないことはわかるけど、その延長上に何がある? それが目的?
目先の売上も大事だけど、狙いの価値に届かないのではやっている意味もない。
今は小さくても、その先に待っているものは大きい価値というストーリーを描かなきゃ。
それでなきゃ、挑戦している意味がないよね。
目的はごく簡単なものを除けば、将来的なものになる。
目先に目的をおいてもいいけど、それは小さいものになる。
大きい、魅力的な目的になればなるほど時間軸は伸びて、やり方も曖昧にしか言えないものになる。
そんな目的に現実的な手段でアプローチすると・・いろんなことが起こり、いろんなことがわかる。
そして、起こったこと・わかったことに次なる手段を入れていくのだが、そこで考えてみて欲しい。
その延長にもともとの目的はあるのか?、と。
最初のアプローチでわかったことへのアプローチは最初の目的を分解したもので、それを続けていくと
どんどん目的から外れていく。それは目的が大きくて、複雑なものだから当然と言える。
目的と手段を一致させるのは案外、難しい。
効率的に価値創造できればよいのだが・・
そもそも価値創造自体が効率化とは遠いところにあるのでプロセス的に相容れない。
価値はこれまでにないもの、これまでにない組み合わせであって、事前にその要素はわからない。
わからないから価値がある。
効率化はいわば、如何に早く・簡単に目的にたどり着くかということで、
要素がわからないものに効率化はない。
相反する概念としてどう使うか・・だね。
天邪鬼だから、「心理的安全性を担保します」、とか「心理的安全性を担保しなさい」って言われると、
なんだよ心理的安全性って与えたり、与えられたりするのかよ、と思う。
お前から心理的安全性をもらう理由はねえよ! 俺は自分で取りに行く。
そもそも心理的安全性ってなによ。心理的だからね・・気持ちの問題ってことで人によって
ぜんぜん違うよね。何から何まで保証されていないと安全性を感じない人もいるだろうし、
ほんのちょっとのことで感じる人もいる。
つまり、自分の安全性とは何か? 自分で決めることだろうと思う。
中身がわからなければどうするか?
それは任せるしかない。
では、どこまで任せるか?
それが“枠”になる。
中身はわからなくても、やろうとしていることの理解はできる。その範囲を枠として捉え、任せてみる。
最初は具体的な枠しか任せられない。何をするかわからないからね。
その人となりがわかってくると、任せる枠も曖昧な部分まで広げられる。
この繰り返しで枠を拡げて、裁量権をつけていく。
どうやるか?は問わない。わからないからね。
何をやるか?は確認する。これは理解しておく必要がある。
「枠と裁量」は仕事のスケールを上げるものなのだ。